水 底 の 翳 −3− 中澤 護人


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2 日下部教会
  JR山梨市駅の真北約400メートルの所に「日下部教会」がある。間口10間、奥行10間程の南面 した落ち着いた教会建築である。祖父徳兵衛等が、かって新選組の一員であった結域無二三や山中笑等の教化を受けながら設立した当時の建物と規模、形体とも大きく異なっている 。
現在の日下部教会の写真 日下部駅をはさんで道沿いにすれば約1キロ南に中澤家があり、加納岩小学校は生家と教会のほぼ中間である。1928年、この教会に婦人伝道師として松野かなが着任し41年まで13年間勤めた。美貌、オルガン演奏に長け、意欲的だった彼女の影響力は絶大だった。小学校の上級生になっていた護人は、以前にも増して熱心に教会・日曜学校に通った。
 とりわけ、心を捉えたのは松野先生の「聖書」のお話の数々と、先生の弾くオルガンにあわせて声張りあげて歌う賛美歌だったという。彼はこの時期のことを強く回顧するが、日川中学入学後も教会に通ったとしても松野先生との交流は31年までの約3年間である。

 1929年県立日川中学校に入学する、兄厚が2学年上に在学していた。東京大学美術・美学教授となった故矢崎美盛の甥、矢崎幸盛(前八幡郵便局長)は「護人氏は2年までは同級生だった。学業は常に学年トップだったが3年になった時、静岡の中学に転校してしまった。教師達は理由を、彼の父親が静岡にいるためだと説明してくれた」と語る。兄厚は、結果的には日川中学を卒業しているから、この間に何らかの事情があったかも知れない。
 34年、静岡県立富士中学校から旧制静岡高等学校文科乙類に入学した。富士中学の3年間について、それを知る術をもたない。

 

Digital Archivist: NAKAZAWA Kyoko (Digi-KEN)