古代から継承する民衆の祈り

 
道祖神プロジェクト


★どんど焼きの繭玉団子


団子花と団子焼き
(写真レポート)

続く〜
 
 
 

 どんど焼きのまゆだま団子と養蚕

 

 どんど焼きで食の楽しみといえば、繭玉団子を焼いて食べることである。地域によっては、これに甘酒などがふるまわれる。なぜ、団子なのか、最近ではあまり深く考える人もないようである。
 繭玉団子は、上新粉(米粉)をこねて、蚕の白い繭の形にまるめた、蒸した団子である(あるいは真ん丸のもある)。昔は14日昼には作り出し、桑の枝、柿の枝などにさして、神棚や大黒柱に飾っておく。篤農家ほどこの繭玉飾り(だんごばな)は大きく作り、夜のどんど焼きには、こどもたちに持たせて、送り出したのである。
 どんど焼きの火勢が弱まると、団子を焼く段取りとなる。「これをくえば、この1年を健康で過ごせるぞ」とか「むしばにならないぞ」といって、繭玉団子をオコヤの熾き火で焼いて食べる。山梨市下井尻地区の現在のやり方では、細い竹の先に針金をくくりつけ、この針金に団子を刺して、熾き火の上であぶる。魚釣りをしているようにも見える。

 これを、イベント演出としてみたとき、神の宿ったオコヤの神聖な火の力を得て、ただの団子が薬になってしまうのである。薬だから、あんこも何もつけない。こどもたちは、その場でふうふういいながら、やけどしそうな熱いやつをほおばる。また、薬であるから、家にいるおじいさんやおばあさんの分も焼いて、持ち帰る。こどもの役目である。余った繭玉団子は、ほうとうに入れて煮て食べたりもした。どんど焼きは、昔は一晩中やっているものだから、他の地区のどんど焼きに遠征して、繭玉だんごを「私にも焼かせてください」といって何カ所も回る信心厚い人もいる。

 繭玉団子には、地域の生業であった養蚕の繁盛を祈る心も込められている。
 その背景として、山梨の道祖神場では、「蚕影山」と刻まれた養蚕神を祀るところが多いことがあげられる。山梨では、古来農民の現金収入を支えたものが養蚕であった。養蚕は蚕を飼い、生糸を産出する。昭和40年代までの山梨の農家の暮らしは、春の麦の収穫、田植えが終わると、夏蚕が始まり、初秋蚕、晩秋蚕と三度の養蚕をこなし、そして稲刈り、麦の播種が終わって、農閑期となる。その中で、なんと云っても現金収入の柱は養蚕だった。(11月に開く甲府最大のお祭り「えびす講祭り」は、そうした、懐に金がたまった農民たちが、家族連れで買い物、食事を楽しむハレの場であった。)

 ことに、甲府盆地東部の峡東地方の農家は、江戸時代中期以降こぞって養蚕を生業としたものである。峡東地方の民家の特色である「切り妻出窓屋根様式」(塩山市駅前の甘草屋敷の建築様式)は、自宅を養蚕のために最適化した例である。峡東の農家は、他の地域に比べ、一様に大きな家を構え、養蚕の現金収入の実入りの大きさを物語っている。このため、その年の養蚕の成果が農家の暮らしに与える影響も大きく、地域の繁栄を守ってくれる道祖神に養蚕の神様である蚕影山を併祀したのも当然といえよう。

 この山梨の養蚕は、明治期には製糸業とともに、山梨の経済発展の原動力となった。明治初期、山梨の生糸を天秤棒でかついで、笹子、小仏峠を踏破し、横浜港での貿易で巨利を得た山梨県人たちは、東京に進出して、電力、鉄道等基幹産業を牛耳り、「甲州財閥」と呼ばれたこともある。このことは、地域の記憶として永遠に語り継がれるべきものである。
 山梨における養蚕業は、昭和50年代急激に衰退し、山梨県養蚕連合会の解散とともに、数百年に及ぶ山梨での産業史の幕を閉じてしまった。年にたった一度、道祖神祭のときだけ各戸で作られる繭玉団子。たかが繭玉団子であるが、今やわれわれの地域から喪われた養蚕の歴史を思い出させてくれる唯一の貴重な証しとなってしまった。