6 ベック博士、ベック将軍にせまる
かっての勤務先、日本製鉄にいた静岡高等学校の先輩金森九郎は、創設早々の東京大学第二生産工学部の教授となっていた。失業者中澤に暫時のアルバイトと支援者として富士製鉄の重役を紹介する。「俺には道楽がない。道楽として支援する。レーニンをやろうがスターリンを学ぼうが勝手だ。君を信じる」と赤旗時代の三倍の手当が重役から提供された。礼に行った笑子とその母に重役は「彼をよろしく頼む」と言うのである。にもかかわらず中澤は「私が負債を負うべきは人類です。人類こそ私とあなたが感謝を捧げるべき共通の祭壇です。なにか世の役に立つ仕事をして、好意に報いたいと思う」と強がりの手紙を書いた。
しばらくして、東京大学の正規職員になった。金森は「東京大学生産技術研究所」と改称された施設に試験高炉の建設を企図した。金森は誰かれ隔てなく人材を集めた。レッドパージにかかった秋田大学冶金学の若き教授もひきとった。高校出の技術者を巨大企業から三顧の礼をもって迎え、建設・操業のリーダーとするのだった。彼らと共に体と頭脳をフル回転させる毎日は充実した時間の経過だった。
多忙の中、多忙なればこそ学問に対する意欲がふつふつと沸き上がった。ルートヴィッヒ・ベック(1841〜1918)の大著「技術および文化史的に見た鉄の歴史」の翻訳を開始した。刊行終了までに12年間(74〜86・たたら書房刊)を要したこの書は、中澤のライフワークである。
DIE GESCHICHTE DES EISENS,IN TECHNISCHER UND KULTGESCHCHITLICHER BEZIEHUNGなるベックの書に魅せられた理由について、中澤は「第一にこの本が科学と技術に精通した科学者の手になる技術史の古典であることを越えて…技術を軸とする世界史への試み…。第二に…全世界を客観的に認識しようとするゲーテ的な『世界精神』に瞠目したこと。第三に…19世紀初頭のシュタイン(シュタイン、ハルデンブルグの改革で史上著名な)と同じ『ラインの開明精神』に心を打たれた…」とも「政治・経済の発展を土台にすえ、技術全般との相互関連のなかで鉄の歴史をとらえようとする高い見識に深い敬意を抱いた」とも述懐する。
なお、護人は明言してはいないが「鉄」への思いは父毅一につながっていたと思われる。動物学者の毅一は、1922年自身が編集の衝にあたっていた啓蒙的雑誌『科学知識』にサー・ヘンリー・ベッセマーの製鉄関連の偉大な発明を紹介している。護人は、この雑誌を最後まで完全に保管していた。鉄は毅一、護人父子を結ぶ何ものかであった。1922年、本多光太郎がベッセマー賞を受賞した。
1988年、70歳を越えた中澤は、「ベック将軍研究」の執筆を開始する。驚くべき事に、全15集約60万字を越える総てを、笑子夫人がワープロによって打ち込んだのである。
中澤の最大の関心は、言うまでもなく「鉄の歴史」の著者であるルートヴィッヒ・ゲオルグ・エルンスト・ヴィルヘルム・ベックであった。彼はダルムシュタット(ヘッセン大公国)に生まれ、16歳で大学入学資格試験に合格し、かのハイデルベルグ大学に学んだ。化学を専攻し20歳でDrの称号を認定された。その後ザクセン等の鉱山アカデミーで鉄冶金学を研究、70年の「偽電報事件」で有名なエムス等で実務経験を積み、イギリスに留学、27歳でフランクフルト・アム・マインの工科大学教授となった。80年代にはピープリヒ市市議会議員さらに91年から16年間市議会議長を勤めた。彼の最大の労作であり、中澤を魅了してやまなかった『技術および文化史的に見た鉄の歴史』全5巻は、1884年から1903年までの約20年の歳月を費して書かれた。当然のことながら彼には多数の主として鉄に関する著作、論文がある。ベックが40歳から60歳にかけて書いたものが、40代を終わろうとする日本人学究中澤の挑戦をうけたのである。
訳業中途で、実はベックが19世紀末、東京帝国大学冶金学教授に招聴されたが、夫人病弱のため実現しなかったことが判明するという挿話もあった。
その上、中澤を驚愕させたのはヒットラー暗殺未遂事件(1944)の中心となったベック将軍が博士の次男であることだった。
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ベック将軍、父を語る一1941年7月10日、父の生誕百年を記念して |
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ベック 戦争と平和の理論一ルーデンドルフ全体戦争説の批判 |
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ヒットラー政権下の水曜会(上) |
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ヒットラー政権下の水曜会(下) |
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ベルリン 抵抗運動記念の場(上) |
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ベルリン 抵抗運動記念の場(下) |
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水曜会の人々 |
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フオッシュ、我らが偉大な敵(上) |
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フオッシュ、我らが偉大な敵(下) |
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将軍、戦争に反対す(上)一ベック参謀総長の建言書 |
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将軍、戦争に反対す(中)一ベック 7月文書全文 |
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将軍、戦争に反対す(下) |
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再びドイツ抵抗運動記念館について(上) |
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総統 万歳!一7・20事件40周年記念論文(上) |
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総統 万歳!一7・20事件40周年記念論文(中) |
ベック将軍(1880〜1944)の家系には軍人が多い。父博士は、福祉活動や福音教会の活動には熱心であったが政治的には全く控えめで、国民自由党には入ったが、党首のベニングゼンを尊敬していただけだった。ベニングゼンは1878年ビスマルクが制定した「社会主義鎮圧法」に正面から反対した。しかし、ドイツは大きな統一体であるべきだとする考えは、子のベック将軍に受け継がれた。
祖父はヘッセン大公国陸軍司法官、曾祖父もヘッセン大公国陸軍省第一局長・少将、その父は陸軍大佐であり、その妻の父も陸軍少将であった。ナポレオンによる「神聖ローマ帝国」(第一帝国)の崩壊後のドイツは、領邦国家の分立や大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立の中で軍事力を優先する傾向が強かった。
第二帝国は「鉄と血による」ビスマルク、モルトケの力によって成立した。似而非立憲君主制は日本の明治藩閥・天皇制政治の悪しきモデルとなった。
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